ベルサイユのばら18話コンテ:風が巻き起こす、禁断の愛
アニメ・ベルサイユのばらは、池田理代子氏の漫画をアニメ化した作品。フランス革命前後の時代が、男装の麗人・オスカルを中心に描かれる。
監督は、前半が長浜忠夫氏、後半が出崎統氏。高屋敷氏は、前半にて数本、コンテを担当した。今回18話は、演出が山吉康夫氏、脚本が杉江慧子氏、コンテが高屋敷英夫氏。
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- 今回の話:
マリーに取り入っているポリニャック夫人の陰謀により、オスカルは襲撃され負傷。偶然通りかかったフェルゼンに助けられる。
フェルゼンの久々の訪仏に、マリーは胸踊らせるが、フェルゼンは政略結婚することに。
それを知り、マリーはショックを受ける。
だがオペラ会の日、林で鉢合わせしたマリーとフェルゼンは、互いの想いを爆発させるのだった。
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冒頭から、高屋敷氏の特徴である、炎のアップ・間が出てくる。家なき子演出、空手バカ一代演出、あしたのジョー2脚本と比較。
ちなみに、暖炉の中からの構図は、家なき子(高屋敷氏演出参加)などで出崎統氏(家なき子監督)が好んで使っていた。
高屋敷氏のコンテの癖の1つに、長年一緒に仕事した出崎兄弟ゆずりの、手前にオブジェクトを大胆に置く構図がある。高屋敷氏のは、出崎兄弟の中間くらいのダイナミックさがある。ルパン三世2nd演出/コンテと比較。
本作における、以前の高屋敷氏のコンテ回(11話)でもそうだったが、オスカルのばあや(アンドレの祖母)が可愛い。高屋敷氏の作品では、大人が子供のように泣く事が多い。
ルパン三世2nd・元祖天才バカボン演出/コンテ、1980年版鉄腕アトム脚本と比較。
監督作忍者マン一平では、「大人だって泣きたい時があるんです」という直球台詞がある。
11話のコンテに続き今回も、カードゲームが出てくる。忍者戦士飛影・キャッツアイ・カイジ脚本と比較。
頻出の、意味深なランプのアップ・間も出てくる。画像はシャンデリア集。
今回、家なき子演出、ルパン三世2nd演出/コンテ、カイジ2期脚本。
フェルゼンの訪仏を知り、マリーが喜ぶ場面のイメージ映像では、白鳥が出てくる。これも、出崎兄弟ゆずりの鳥演出。家なき子演出と比較。
続いてのイメージ映像も、家なき子の高屋敷氏演出回と雰囲気が重なる。
オスカルは、自分を襲撃した首謀者・ポリニャック夫人を鋭い眼光で見つめ、ポリニャック夫人は狼狽する。
証拠が掴めなかったので、今回はここまでとなるが、カイジ2期脚本では、証拠を掴んだ上で、カイジが班長に逆襲している。ここも、時と作品を越えたリベンジのようで、比較すると面白い。
フェルゼンとオスカルが話し込む場面にて、高屋敷氏のコンテの癖と見られる、手前にアーチ状のオブジェクトを置く構図が出る。ルパン三世2nd演出/コンテと比較。
本作における高屋敷氏コンテ回全てに、虹が出てくる。本作11話コンテ、エースをねらえ!演出と比較。同氏の好みなのかもしれない。
フェルゼンが結婚すると知り、マリーがショックを受ける場面でも、出崎兄弟ゆずりの鳥演出が出る。高屋敷氏のは、後年(特に脚本作)になると、ストーリーとの関連性が、より密接になっていく。空手バカ一代演出/コンテ、カイジ脚本、ルパン三世2nd演出/コンテと比較。
ところで、高屋敷氏の演出・脚本作ともに、苦悩したり疲れたりしているキャラが、木によりかかる画がよく出てくる。これも癖なのかもしれない。元祖天才バカボン演出/コンテ、めぞん一刻・じゃりン子チエ脚本と比較。
オスカルがフェルゼンの言葉を思い出す場面では、フェルゼンの画がぐるぐる回転する。似たような演出が空手バカ一代演出/コンテにある。
また、台詞を何回もリフレインさせるのは、高屋敷氏の脚本によくあるので、コンテにて同氏が連呼指定をしたかもしれない。
そして、オスカルが考え込む場面でも、火の意味深なアップ・間が出てくる。太陽の使者鉄人28号・MASTERキートン脚本、ど根性ガエル演出と比較。
オスカルの飲むワインに、マリーとフェルゼンのイメージが映るが、忍者戦士飛影脚本とシンクロを起こしている。忍者戦士飛影脚本執筆時に、本作の経験を生かした可能性がある。
更に、ワインにオスカルが映る。己と向き合ったり、真実を映したり、状況を映したりする鏡演出は、高屋敷氏の作品によく出る。蒼天航路・カイジ1、2期脚本と比較。
オペラ会の日、林で鉢合わせしたマリーとフェルゼンは、互いの想いを爆発させ、抱き合う。ここでは、木々や風が2人の恋をアシスト。高屋敷氏の作品では自然が重要な役割をする。めぞん一刻脚本では、雪が恋をアシストした。
恋愛と母子愛の違いこそあれど、抱擁シーンが、家なき子演出と似てくる。年代も近く、本作における高屋敷氏のコンテは、全体的に雰囲気が家なき子と重なる。
フェルゼンとマリーは、ついに結ばれる。同じく禁断の愛(呂布と貂蝉)が描かれた、蒼天航路脚本と比較。どちらも暗喩やイメージが多め。
- まとめ
マリーとフェルゼンのラブシーンは、後に高屋敷氏の様々な演出・脚本作に生かされることになる。特に、風や葉といった、自然の役割が重要となる。ラブコメである、めぞん一刻の脚本・最終シリーズ構成でも、これは存分に生かされていた。特に、雪の夜に五代と響子(主人公とヒロイン)が結ばれる描写は印象的。
近年は、アカギやカイジ、ワンナウツなど、男ばかりの作品の脚本・シリーズ構成が多いが、ラブロマンスも同氏の守備範囲内であることを、今回は思い出させてくれる。
そして鳥演出も、要所要所でうまく機能している。気になるのは、イメージの止め絵にも鳥が描かれていること。以前の高屋敷氏コンテ回のイメージ絵と比較。
イメージ絵の案を誰が出すのかは、その時その時で様々(脚本・コンテ・演出・作画など)なので、発案者は不明ではあるが、とにかくイメージ絵にまで出張るくらいに、鳥が活躍している。
富野由悠季氏・出崎統氏などの特例を除き、コンテは根本的に話をいじれない(勿論、アレンジは可能)わけだが、脚本からイメージを膨らませ、画の設計をすることができる。その、「イメージを膨らませた部分」が、高屋敷氏が得意とする、舞い散る葉やランプなどの「活躍」なのではないだろうか。
不思議なことに高屋敷氏は、これら「物や自然の活躍」を、脚本でも行う。アニメは映像作品なのだから、脚本であろうとも、視覚情報を目一杯使うことを、最初から意識していると考えられる。
最初の段階である脚本が、その後の工程を意識していないと、コンテ、作画、演出は困ることがあるという。コンテや演出の経験も豊富な高屋敷氏は、「アニメにするための脚本」を書く事に長けているのでないか…と私は考えている。そうであれば、同氏の脚本作・演出作の完成映像が似通ってくる原因が、少し見えて来る。それでも、不思議ではあるが。
あと、テーマ的な話になるが、今回のマリーは「王妃としての自分」を捨てて、「フェルゼンを愛する、一人の女としての自分」を選んでいる。高屋敷氏の発するテーマに、「自分とは何か」「どういう自分になるかは、自分で決めろ」というものがある。今回はコンテなので、脚本ほどの関与はできなかったであろうが、ここに関してはテーマの共通性が見られ、興味深い。後の脚本作に生かしたかもしれない。
ベルサイユのばらにおける高屋敷氏の仕事はコンテのみで、今回が最後。だが、後年の脚本で同氏が意識しているらしきことと、共通の部分が見られる、貴重な作品だった。