おにいさまへ…34話脚本:死してなお、一人にあらず
アニメ・おにいさまへ…は、池田理代子氏の漫画をアニメ化した作品で、華やかな女学園を舞台に様々な人間模様が描かれる。
監督は出崎統氏で、高屋敷英夫氏はシリーズ構成(金春氏と共同)や脚本を務める。
今回のコンテは出崎統監督で、演出が佐藤豊氏。そして脚本が高屋敷英夫氏。
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- 今回の話:
原作を大幅に改変したエピソード。
れい(謎めいた上級生)の事故死に、皆が打ちのめされる。
そんな中、事故の前に、れいが発注した赤いバラの花束が、蕗子(れいの姉)のもとに届く…。
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れい(謎めいた上級生)の事故死を、当直の先生から知らされた薫(れいの親友。体育会系だが病を抱える)は、事の次第を飲み込めずにいた。
時計のアップ・間があるが、似た表現は他の作品でも見られる。F-エフ-・コボちゃん・カイジ(脚本)と比較。
一方、夕陽が綺麗な場所に行く約束を、れいとしていた奈々子は、夜7時30分まで彼女を待って帰途につく。駅には智子(奈々子の幼馴染)がおり、何とか奈々子に状況を説明しようとするが、うまく言えず抱きついて泣き出す。抱きつく状況は結構ある。DAYS(脚本)、家なき子(演出)、グラゼニ(脚本)と比較。
茫然としたまま病院に行った奈々子は、地下の部屋に入る。そこには薫、蕗子(れいの姉)、貴(れいの兄)がおり、そして、れいの遺体が安置されていた。
原作には無い描写で、「孤独にさせない」がポリシーの一つである、高屋敷氏らしいアニメオリジナル。
れいが大事にしていたブレスレットが映る。魂がこもっている「物」のアップ・間は頻出。ルパン三世3期・めぞん一刻・F-エフ-(脚本)と比較。どれも遺品。
遺体と対面した奈々子は錯乱し、れいの為にスープを作ろうと言い出すが、智子に現実を言われ、絶叫する。
高屋敷氏は食べ物に並々ならぬこだわりがあり(だから飯テロも多い)、「食」と「心」の結びつきについても、多くの作品で描いている。
貴は刑事から、検死を行うため、れいの遺体をすぐには返せないと言われる。
自殺の可能性もあると刑事は語り、煙草を吸う。
喫煙場面は、高屋敷氏の担当作に数多い。
めぞん一刻・カイジ(脚本)、ルパン三世2nd(演出/コンテ)と比較。
帰宅した奈々子を、奈々子の母と義父は優しく迎える。ニュースでは、れいが自殺した可能性もあると報じており、奈々子の義父は「自殺だとしたら、いかんな」と言う。精神疾患や悲観が原因の自殺に否定的な、高屋敷氏の主張が出ている。
そして奈々子は、れいが住んでいたアパートに電話をかけ、泣き崩れる。
一方蕗子は、自宅のリビングに佇む。強い風に吹かれて風見鶏が回るが、「物」が意味深に動く表現は色々な作品に出る。
F-エフ-・グラゼニ・蒼天航路(脚本)、ベルサイユのばら(コンテ)と比較。
そこへ、れいが事故直前に配送を頼んだ赤いバラ(蕗子が好きな花)の花束が、蕗子のもとに届く。それには手紙が添えられていた。手紙は実に多くの作品で印象に残る。宝島(演出)、F-エフ-・ワンダービートS・めぞん一刻・カイジ2期・ミラクルガールズ(脚本)と比較。
手紙には、いつになく前向きな、れいの言葉が綴られていた。「明日」や「未来」といった「前に進む」心意気を、高屋敷氏は大事にする。ルーツはやはり、あしたのジョー1・2の脚本経験(1は無記名)なのではないだろうか。
「前に進め」がテーマの一つだった、家なき子の演出経験も大きいと考えられる。
蕗子は手紙を握りしめ、「こんな手紙一つ遺して、一人で死んでもいいっていうの?」「私に後から一人で飛べっていうの?」(蕗子は、れいと心中を図ったことがある)と膝から崩れ落ちる。
一人取り残される様は、ベルサイユのばら(コンテ)と重なる。
翌日。午前中は学校を休んだ奈々子だったが、午後からは授業に出ようとして家を出る。だが、自然と足が、れいが死亡した現場に向かう。
そこには薫が来ており、その後彼女はゲームセンターに寄る。
レースゲーム描写があるが、レースものであるF-エフ-(シリーズ構成・全話脚本)の経験からかもしれない。実際、F-エフ-にもレースゲームをする場面がある。
どちらもアニメオリジナル。
追ってきた奈々子に対し、今は他人を受け止められる状態に無い…と薫は言う。
奈々子は、事故当日、夕陽が綺麗に見える場所に、れいと行く約束だったと打ち明け、自殺ではないと断言する。
原作では自殺なのだが、ここでも、(精神疾患や悲観による)自殺に否定的な高屋敷氏の姿勢が見える。
れいの死因が自殺ではないと知った薫は、幾分か気が楽になったと奈々子に感謝するが、れいの死という事実は変わらないと言って去る。
「昨日と同じ、暑い日になりました」という奈々子のナレーションが入る。
季節の移ろいの情緒は、多くの作品で描写される。グラゼニ・MASTERキートン・めぞん一刻(脚本)と比較。
蕗子の家には刑事が来て、れいが奈々子と会う予定だったことを知っていた智子や、目撃者の証言により、れいの死は事故と断定したと話す。
れいは、鳥のように高く飛んだ…という、目撃者の証言内容を刑事から聞いた蕗子は、心が揺れる。出崎統監督も、高屋敷氏も「鳥」にこだわる。
夕焼けの中、奈々子は、れいと落ち合うはずだった駅に赴く。
強く生きていけそうな気がする…という、れいの言葉を思い出し、奈々子は少し微笑む。高屋敷氏は「笑顔」にこだわりがある。色々な感情を含んだ微笑は、グラゼニ(シリーズ構成・全話脚本)でも多く見られた。
その夜蕗子は、れいの最後の贈り物であるバラと共に風呂に入り、れいを愛していた、寂しいと思うのだった。
花びらの表現は、めぞん一刻最終回(脚本)のラストシーンと、らんま(脚本)が印象深い。その他も、花の描写は多い。
- まとめ
33話(こちらも高屋敷氏脚本)に続き、殆どがアニメオリジナル。もはや、
- 他人の思いを受け止めきれない薫
- 蕗子がれいを愛していたこと
しか原作に沿っておらず、それすら台詞が大きく変更されている。
やるとなったら原作を大きく変える高屋敷氏の腕が、原作クラッシャーである出崎統監督のもと、大いに発揮されている。
この腕は、F-エフ-(シリーズ構成・全話脚本)でも存分に振るわれており、同氏が時折見せる大胆さに驚く。
グラゼニ(シリーズ構成・全話脚本)では、原作に忠実な部分と、大胆なアニメオリジナル部分とが入り交じっている。
一方で、じゃりン子チエ・MASTERキートン(脚本)は原作に非常に忠実。
高屋敷氏の臨機応変さを、色々な担当作を見ることで知ることができる。
本作では、れいの死因が自殺から事故に変更されているのが大きい。
病的に蕗子に心酔していた、れいがソロリティ(学園の社交クラブ)廃止運動などを通じ変わっていき、誇りを取り戻した蕗子を見ることで、前向きに生きる気力を得たことが、アニメでは丁寧に描かれた。
ただ、原作もアニメも、れいは死ぬ。
それでもなお、アニメでは遺体の周りに関係者が揃う描写があったり、次回(35話)では葬儀の場面があったりと、彼女は「一人ではない」という主張がある。
原作では、れいは一人「死」を見つめていて、かなり異なる。
そして、奈々子の義父の台詞「自殺だとしたら、いかんな」にも、先に述べた通り、(精神疾患や悲観での)自殺を否定する、高屋敷氏の強いメッセージが発せられており、その直球に驚く。今までも感じていた事だが(特に元祖天才バカボン演出/コンテの8話)、ここまでハッキリしているのは珍しい。
あと、奈々子が見せる、様々な感情が入った「微笑」も目を引く。
先に述べた通り、グラゼニ(シリーズ構成・全話脚本)でも、夏之介が色々な感情をたたえた上での微笑を見せることがあり(アニメオリジナル)、「笑顔」へのこだわりが半端ないことを知れたのは収穫だった。
れいの死因変更(自殺→事故死)について話を戻すと、原作を変更するほどの、アニメ制作サイドの反発(?)には何があったのか、単純に興味深い。シリーズ構成(金春氏と共同)・脚本(れいが死ぬ回も脚本)の高屋敷氏も、無関係ではないと考えられる。
とにもかくにも、アニメのれいは、最終的には前向きで、死してなお「一人」ではなかった。これをどう捉えるかは各々あると思うが、「孤独は万病のもと」がポリシーの一つである、高屋敷氏の主張が如実に表れた、貴重なエピソードだった。
一方で、「寂しい」と吐露する蕗子の姿もまた、「孤独」の表れ。だがしかし、こちらも、れいからの愛あふれる手紙と花を貰っており、原作より救済されている。
アニメオリジナルの意味と意義を、またしても考えさせられた。