蒼天航路11話脚本:善悪なき戦場
アニメ・蒼天航路は、同名漫画のアニメ化作品。高屋敷氏はシリーズ構成も務める。
監督は学級王ヤマザキや頭文字D4期などを監督した冨永恒雄氏。総監督は、バイファムやワタルなどのキャラクターデザインで有名な芦田豊雄氏。
━━━━
後漢を支配下に置いた北方の暴君・董卓(とうたく)に対し、袁紹(えんしょう)を中心にした反董卓連合軍が結成された。その中には、曹操のほか、後の英傑となる劉備・張飛・関羽、孫堅らもいた。
反董卓連合軍は、都へ進むための関門である砦・汜水関を落とすべく進軍、戦闘に入る。
曹操は、曹軍の旗をあらゆる隊に持たせる作戦に出る。なぜなら、董卓軍の将・華雄を曹操の重鎮・夏侯惇が討ち取った情報が広まっており、曹軍が多いと思わせれば董卓軍が怯むと踏んだためである。
様々な旗の意味深なアップが続くところに、高屋敷氏の特徴が出ている(意思を持つ物)。DAYS脚本でも、意思を持つかのような背番号の意味深アップ・間がある。
また、曹操は戦況を把握するため駒を使うが、この、駒のアップ・間も特徴的。ここも、駒に意思があるかのように描かれる。カイジ脚本でも、物が意思を持っているような描写が沢山出てくる。
一方劉備は、自分達(劉)の旗が必要だと言い出す(特徴:アイデンティティを示す物)。
そして、自分達も曹軍のように、戦場に轟くような武勲を上げ、評される事が必要なことに気付く。
都の洛陽では、曹操の思惑通り、曹軍の実際の数がわからず董卓軍は困惑していた。
そんな部下達を、董卓は一喝。その最中、化け物じみた強さの戦士・呂布が名乗りを上げる。
呂布は勝手に董卓の愛馬・赤兎馬を駆り出陣。偶然にも、RIDEBACK(高屋敷氏脚本・シリーズ構成陣)では、赤くて馬のような主役ロボットが出て来る。
RIDEBACK1話(高屋敷氏脚本)のサブタイトルは「深紅の鉄馬」。少し赤兎馬を意識したサブタイトルかもしれない。
一方劉備は宣言通り、ボロ旗ながらも旗を掲げる。そして、両軍が激しく交差する戦場にて、何かとんでもないものが迫ってくるのを感じる。彼の予感は当たり、呂布がやって来る。呂布は敵も味方も関係なく殺し、暴れ回る。
そんな呂布に張飛は武者震いし、一騎討ちを挑もうとするが、劉備は呂布の人間離れした強さを感じ、関羽に張飛を止めるよう頼む。「義弟(おとうと)が死ぬ」と言う劉備の姿に、高屋敷氏の特徴である、疑似家族間の愛情が見て取れる。
劉備の内にある徳の高さを感じ取った関羽は、その気持ちに武をもって応えるべく、自分が呂布と戦うと決意。
ここも、特徴である旗のアップ・間があり、関羽の決意に呼応している。
また、今回の劉備と関羽のように、目と目、手と手で通じ合う描写は、たびたび高屋敷氏の作品に出てくる。ルパン三世3期脚本と比較。
こうして、関羽と呂布の死闘が開始される。劉備は関羽の強さに感動し、あらためて天下を取ろうと決意する。
それを見守る袁紹は、自軍をこの機に乗じて動かすべきか迷う。
曹操はそんな袁紹を焚き付け、それを受けた袁紹は自軍を動かす。カイジ2期脚本にて、遠藤さんをうまく煽り味方につけるカイジと重なる。
そんな中、猛牛の大群で反董卓連合軍を蹴散らしながら、董卓が戦場に到着する。
董卓は残虐に兵を殺しまくり、死体の山を築く。
戦場には幼い皇帝も来ており、劉備は、どさくさに紛れて皇帝に接近。劉備の挙動の可笑しさ・無邪気さに、皇帝は笑顔を見せる。高屋敷氏特徴の、年齢性別問わない無邪気さ・幼さが出ている。太陽の使者鉄人28号脚本と比較。
劉備は皇帝に、皇帝の血を引く(真偽不明)自分が天下を取ると宣言して去る。張飛にお姫様抱っこされる劉備が、これまた幼い。
一方、董卓の残虐さに、反董卓連合は萎縮。やむを得ず、袁紹は兵を撤退させる。
曹操は、敵ながらも董卓の強さと、一見粗暴に見えても、緻密に練られた行動に感心する(特徴:善悪の区別は単純ではない)。
その後、董卓は都・洛陽を燃やす。ここも、「キャラクター」として炎や都市が描かれており、めぞん一刻脚本の、まるで生きているような一刻館などが思い出される。
また、立ち昇る炎が龍となる。ここも、炎が「生きている」描写となっている。
洛陽を燃やした後、董卓は都を長安に移し、自らを「太師」と名乗るのだった。
- まとめ
まず目を引くのは、劉備の幼さ・無邪気さ。その幼さは、純粋さでもあり、戦況を鋭く見ることができる。また、ちゃっかり皇帝に会いに行き、皇帝の笑顔を引き出している所も強調されている。
劉備の無邪気さは、幼い皇帝の孤独を癒す面もある(特徴:ぼっち救済)。
また、「人ではないもの」がキーキャラクターとなっているのも高屋敷氏の特徴。今回は「旗」。旗はアイデンティティを表すものの一つであり、曹操はそれを作戦に、劉備は自分達の存在を知らしめるために使う。アイデンティティの如何も、高屋敷氏の作品によく出てくる。
そして、たびたび出てくる特徴、「善悪の区別は単純ではない」件について。残虐の限りを尽くす暴君・董卓でさえ、少しキレイめにして、かっこよささえ感じられる将として描いている。高屋敷氏は、この「敵ながらかっこいい」さまを描写するため、本作含め原作に大ナタを振るうことがあり、こだわりが感じられる。
終盤では、燃やされる「洛陽」という都市に「生死」があることが描かれている。
燃え盛る炎の中から龍が出現するシーンの強調も、炎が「生きている」ことを表しており、高屋敷氏らしさが出ている。
あと、人ではあるのだが、呂布は今回、雄叫び以外は一切喋らない。演出や脚本で「喋らない“もの”の無言の主張」を描いてきた高屋敷氏にとって、呂布は得意な事を生かせるキャラクターなのかもしれない。
さらに、劉備の無邪気さに対して曹操の冷静さが描かれる。曹操は大局的に戦場を見ており、関羽や呂布といった派手な豪傑を評しながらも、戦場全体を注視している。今回、曹操の役割は一見地味だが、「善や悪を決めつけない」目で戦場を見ている。
カイジ1期最終回(高屋敷氏脚本)にてカイジは、兵藤会長は悪人なのだから敗れるべき、と、戦略なき運に頼り、会長に負けてしまう(一方会長は戦略があった)。また、火の鳥鳳凰編(脚本・金春氏と共著)では、茜丸が、自分より彫刻の才がある我王に嫉妬し、元は犯罪者である彼の彫刻が認められるべきではないと主張。その愚かさを見ていた火の鳥により、茜丸は炎に焼かれ死ぬ。
このように、高屋敷氏の作品は、「悪人だから」「残虐だから」敗れるべき、という屁理屈によって、真の「理」を忘れてしまうことに警鐘を鳴らす。
悪人などという言葉に収まらないほどの暴君である董卓だが、曹操は、その中にある「理」を見つめている。その様は、高屋敷氏の理想とも取れる。派手な役回りの劉備達に負けず劣らず、董卓や曹操の魅力が描かれていた回だった。