宝島2話演出:「幼さ」にある「仕掛け」
アニメ・宝島は、スティーブンスンの原作小説を、大幅に改変してアニメ化した作品。監督は出崎統氏。高屋敷英夫氏は、偶数回の演出を務める(表記はディレクター)。
今回の脚本は山崎晴哉氏で、コンテが出崎統氏、演出が高屋敷英夫氏。
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本記事を含めた、宝島の記事一覧:
http://makimogpfb2.hatenablog.com/archive/category/%23%E5%AE%9D%E5%B3%B6
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- 今回の話:
宿屋兼酒場・ベンボー提督亭を、母と切り盛りしているジムは、粗暴な宿泊客・ビリーから、一本足の船乗りを見つけたら知らせて欲しいと頼まれる。その後、ビリーは黒犬と名乗る男の襲撃を受けた上、病に倒れる。そんな中、盲目の怪しい男が、ビリーに会わせろとジムを脅す。
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冒頭にジムが見る悪夢で、不吉に鳥が飛ぶ。出崎統監督の代表的演出の一つなので、本作で出るのは自然だが、高屋敷氏は、これを脚本作でも出す。F-エフ-・陽だまりの樹・カイジ(脚本)と比較。
誰か自分を訪ねて来なかったかと、ビリー(宿泊客)がジムに尋ねる場面は、中年男性と少年/青年とのスキンシップを好む高屋敷氏の傾向が出ているのか、他の作品と重なるものがある。グラゼニ・カイジ2期・じゃりン子チエ(脚本)と比較。
ジムの母が作る朝食に、飯テロを好む高屋敷氏らしさが出ている。ルパン三世2nd(演出/コンテ)、グラゼニ・カイジ2期(脚本)と比較。他も多数。
ジムは村に行き、ビリーが恐れている「一本足の船乗り」を探す。雑踏の中で人を探すシチュエーションは、高屋敷氏の担当作に多い。F-エフ-・カイジ2期(脚本)と比較(どちらもアニメオリジナル場面)。
「一本足の船乗り」らしき人物を見つけられず、大あくびするジムが幼い。これ以外にも、13才に見えない仕草が多く見られる。高屋敷氏は、演出/脚本作ともに、幼く可愛いキャラづけをする事が多い。F-エフ-・陽だまりの樹(脚本)、ベルサイユのばら(コンテ)と比較。
その後、口笛を吹きながら酒場の掃除をするジムと、じゃりン子チエ(脚本)にて、歌を歌いながらホルモンを焼くチエが重なる。どちらも子供らしさが出ている。
そしてビリーは、黒犬と名乗る男の襲撃を受ける。
隙を見て形勢を逆転させたビリーが剣を振りかざす場面にて、背後に太陽が映るが、このような絵面は、脚本作にも多く見られるのが不思議なところ(演出作にも多いが)。蒼天航路・グラゼニ(脚本)と比較。
黒犬を撃退後、脳溢血で倒れたビリーは、海賊という事が判明。
彼を治療したリブシー(医者兼地方判事)とジムが会話する場面では、満月が印象的。高屋敷氏は月を多く「出演」させる。空手バカ一代(演出/コンテ)、あしたのジョー2(脚本)と比較(他も多数)。脚本になるにつれ、意味が重くなる。
ジムは、ビリーを看病する。カイジ2期(脚本)にて、病人を看病するカイジと比較。どちらも、優しさが表れている。
また、軽口を叩いて舌を出すジムが幼い。新ど根性ガエル・めぞん一刻(脚本)と比較。
「一本足の船乗り」の悪夢にうなされ、ビリーは再び昏倒。駆けつけたリブシーに、「一本足」とは何かと尋ねられたジムは、説明するべきか迷う。キャラクターが指をもじもじさせるのは、他の作品でも結構出る。エースをねらえ!(演出)、めぞん一刻・カイジ2期(脚本)と比較。どれも幼い。
意を決して、ジムは「一本足の船乗り」の事をリブシーに話す。それを聞いたリブシーは、ブリストルで料理屋を営む、一本足の男の話をする。ここも、(使い回しだが)満月に存在感がある。
一週間後、少し回復したビリーを、ジムは散歩に連れ出す。ビリーの手を引くジムが優しい。手と手のコミュニケーションは頻出。F-エフ-・めぞん一刻(脚本)と比較。
岬に佇み、ジムは海軍にいた父の話を、ビリーは海賊団の副船長だった頃の話をする。少年/青年と中年男性との交流は、高屋敷氏の担当作で実に多く描かれる。カイジ2期・F-エフ-(脚本)、空手バカ一代(演出/コンテ)と比較。
ビリーは、「海の男は、やっぱ海の上で死にてえもんだ」と吐露。ジムは、それを切ない顔で聞く。ここも、中年男性との心の交流が表れている。
カイジ2期・はじめの一歩3期(脚本)、ど根性ガエル(演出)と比較。
ある霧の日、ジムは村にて客引きを行うが、空振りに終わる。ここもジムが幼い。主人公の初期状態が幼いのは、色々な作品で見られる(特にシリーズ構成作)。F-エフ-・カイジ2期(ともにシリーズ構成/脚本)でも、初期は主人公の幼さが目立つ構成。
そんな中、ジムは全盲の男から、手を引いて欲しいと頼まれる。快諾するジムだったが、男はジムの手をひねりあげ、ビリーの所へ案内しろと脅す。ここも、手と手のコミュニケーション。悪意や敵意でも適用される。画像は、F-エフ-(脚本)との比較(こちらは敵意)。
- まとめ
色々な作品で目立つ、キャラクターの幼さ/可愛さが、本作でも炸裂。
演出作では家なき子、シリーズ構成作では、めぞん一刻(後期)・F-エフ-・カイジで顕著だったが、高屋敷氏は、序盤で幼い面を沢山見せた後に、中盤や終盤で成長した姿を見せる「仕掛け」を設置する。
本作のジムも、幼い面が強調されればされるほど、終盤に、大きく成長した姿が描かれるのではないか?という思いが強くなる。そのため、序盤のジムの幼さを覚えておきたい。それにしても、13歳に見えないほどの幼さに驚く。
そして、中年男性と少年/青年の交流が、本作でも強調されている。
F-エフ-(脚本)でも、主人公の軍馬と、飲んだくれの英二郎との交流が描かれる。本作のビリーも、病気になるほどの飲んだくれ。
やさぐれた中年男性と、未来ある少年/青年の構図が、高屋敷氏は好きなのかもしれない。
あと、ビリーが「海の男はやっぱ海の上で死にてえもんだ」とジムに話す場面は胸を打つ。傍にいるジムが幾ばくかの救いになっており、高屋敷氏が多くの作品で出す「孤独救済」が表れている。
今回は演出なので、「幼さ」「中年男性との交流」「手と手のコミュニケーション」といった高屋敷氏の定番の特徴が映像に出ている原理は分かりやすい。
やはり不思議なのは、(絵に関与できない)脚本時でも同じような特徴が映像に出る点。しかも、脚本作の方が強烈な気がする。
これの原因については(何度か書いているが)、演出作で積み上げた経験を生かした上で、脚本で好みの状況を作りあげる/強調するのが上手いためではないか…と考えている。
本作の経験も、後の脚本作に大いに生かされているのが、早くも感じられる。
先に特集したF-エフ-(高屋敷氏シリーズ構成・全話脚本)では、怒濤のように出てくる同氏の個性や特徴、ポリシーに驚かされたが、確実に「宝島」の演出経験も使われていたのだという思いを強くした。
※F-エフ-の記事一覧はこちら:
http://makimogpfb2.hatenablog.com/archive/category/%23F-%E3%82%A8%E3%83%95-