『あしたのジョー2』42話脚本:埋まるピース
アニメ『あしたのジョー2』は、高森朝雄(梶原一騎)氏原作、ちばてつや氏画の漫画をアニメ化した作品(第2作)。風来坊の青年・矢吹丈がボクシングに魂を燃やし尽くす様を描く。監督は出崎統氏。
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- 今回の話:
コンテ:出崎統監督、演出:竹内啓雄氏・大賀俊二氏、脚本:高屋敷英夫氏。
キニスキー博士(パンチドランカー研究の権威)によれば、丈がパンチドランカー症である確率は99%。葉子は何とか、丈にそれを告げようとするが…。
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ホセ(バンタム世界王者)の主治医かつパンチドランカー研究の権威・キニスキー博士は葉子(白木ジム新会長)に、丈は99%、パンチドランカー症であると告げ、また、葉子の丈への想いを察する。恋心を察するのはアニメオリジナルで、キニスキー博士をよく掘り下げている。
葉子はそれとなく茶番を打ち、キニスキー博士と丈を引き合わせるが、それを悟った丈に「医者とアスパラは食わず嫌い」とあしらわれる(アニメオリジナル)。食べ物に例えるのが、食にこだわる高屋敷氏らしい。
一方、丈との試合をひかえ来日しているホセはトレーニングに励む。東京タワーをバックにした絵面は、アカギ(脚本)と重なる。また、高屋敷氏が無記名で脚本参加した、あしたのジョー1の最終回にも似たような絵面がある。
朝食をとりながら、ホセは須賀(ジャーナリスト)の取材を受ける(アニメオリジナル)。飯テロは頻出。元祖天才バカボン(演出/コンテ)、カイジ2期(脚本)、宝島(演出)、グラゼニ(脚本)と比較。
須賀は、カーロス(丈の好敵手)が既に丈に壊されており、その直後だからホセはカーロスに勝てたのだとする噂についての感想を聞くが、ホセは気にせず。アニメオリジナルでジャーナリストを活躍させるのは、RIDEBACK(脚本)にもある。
葉子は、なんとかパンチドランカーのことを話したくて丹下ジム(丈の属するジム)に電話するが、またも丈にあしらわれる。戸惑う段平(丹下ジム会長)が可愛い。MASTERキートン・ワンナウツ(脚本)ほか、高屋敷氏は、おじさんの愛嬌を出すのが上手い。
夜、雨が降ってくる。ベルサイユのばら(コンテ)、おにいさまへ…(脚本)ほか、雨でドラマを盛り上げるのはよくある。
寝付けない丈は雨の中ランニングし、子犬と戯れる。孤独でいると、誰かが(動物含む)傍に来る展開は結構ある。
ガンバの冒険・ハローキティのおやゆびひめ(脚本)と比較。高屋敷氏は、「孤独」の描写にこだわる。
葉子は、諦めずに丹下ジムに電話をかけるが、丈は後輩の河野に協力してもらい居留守を使う。ここは河野が目立つ。空手バカ一代(演出/コンテ)、F-エフ-(脚本)ほか、高屋敷氏は、サブキャラやモブを大事にする。
夕刻、雨が上がってアメンボが走る。一旦美しい自然で間を取ることは多い(美術スタッフにかかっていることであるが)。
新ど根性ガエル・RIDEBACK・めぞん一刻(脚本)と比較。
その後も葉子はめげず、雨の中丹下ジム前で待つが、丈は無視する。それを見たサチ子(丈を慕う子供達の一人)は、葉子にカイロをあげる(アニメオリジナル)。ここも高屋敷氏的な「孤独救済」。ストロベリーパニック・おにいさまへ…(脚本)と比較。
葉子は、一先ず帰宅する。木葉が映るが(アニメオリジナル)、木葉による「間」は色々な作品にある。空手バカ一代(演出)、MASTERキートン・グラゼニ(脚本)と比較。
とにかく諦めない葉子は、丹下ジム宛に速達を送る。手紙を先に読んだ段平は、内容を丈に報告する。物干し場で話すのはアニメオリジナル。同じような演出がF-エフ-・チエちゃん奮戦記(脚本)にある。
葉子の手紙には、カーロスを壊したのはホセのコークスクリューパンチであるとして、カーロスのレントゲン写真が添えられていた。これは丈のホセに対する優位性を覆すものだったが、丈は始めからそれに期待していなかった。期待していない旨はアニメオリジナル。丈の覚悟を深めている。
- まとめ
最終回に向けての伏線が、着々と張られていく。ただ直接的に張るだけでなく、美しい自然や暗喩を使い、詩的に仕上げているのが見事。
葉子や丈は、孤独ではあるのだが、完全に孤独なわけではなく、周りが放っておかない。この「孤独救済」アニメオリジナル要素は、完全なる孤独を危険なものとする高屋敷氏の考え方が反映されている。
また、サチ子が葉子にカイロを渡すアニメオリジナル場面は、女性心理を捉えた細やかなものであると思う。こういった女性的な描写は、時折ハッとさせられる。元夫人の脚本家・金春智子氏の影響もあるのだろうか?
高屋敷氏はキャラの掘り下げが上手いが、キニスキー博士から丹下ジムの後輩に至るまで、今回も掘り下げに余念がない。キニスキー博士までもを、他人(葉子)の恋心まで見抜く鋭い人間として描いたのは凄い。
今回は、丈のパンチドランカー症と、(丈への)葉子の恋心と、ホセのコークスクリューパンチの威力…と、最終回に向けての最後のピースとも言える要素が入っている。
先に述べた通り、それを“詩的”に、静かに表現しているのが良い。
原作は、(週刊連載のため)毎回の展開が気になる構成になっているのに対し、アニメは(既に多くの人が知る)「結末」に向けてピースを埋めていく構成。このあたりの「違い」をよく本作の作り手が理解していると思う。
媒体が違うわけで、原作には原作の、アニメはアニメのテンポがある。本作を見ていると、原作をただダラダラなぞっていても原作の面白さを引き出せるわけではないのがわかる。
これは、本作だけでなく、高屋敷氏の担当作の原作つきアニメを見る度に思う。いくらいい原作があっても、アニメでその面白さを引き出すためには非常に高度な技術と労力が要る。同氏はそれが巧みで、細かく見れば見るほど感心する。
また、こうして見ていくと、アニメがアニメらしく原作を消化できなければ、原作つきアニメは残念な出来になりやすいことも、逆説的にわかってくる。特にシリーズ構成や脚本は、その責任が重大なのだと、つくづく思うのである。