オヨネコぶーにゃん7B話脚本:貫かれるポリシー
アニメ『オヨネコぶーにゃん』は、市川みさこ氏の漫画をアニメ化した作品。
ゆでた家に押しかけた、ふてぶてしい猫・オヨヨ(ぶーにゃん)を中心にしたギャグが繰り広げられる。
総監督:笹川ひろし氏、監督:葛岡博氏、シリーズ構成:金子裕氏。
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- 今回の話:
サブタイトル:「金魚を守れ!」
コンテ/演出:塚田庄英氏、脚本:高屋敷英夫氏。
原作にもあるエピソード。オヨヨは、たまご(オヨヨの飼い主)が貰ってきた金魚を食べようと、執拗につけ狙う。
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ある日、たまご(オヨヨの飼い主)は、同級生のモンブランから金魚を貰ってくる。オヨヨには、その金魚が美味しそうな餌にしか見えない。ルパン三世2nd(演出/コンテ)、F-エフ-(脚本)ほか、食いしん坊描写は頻出。
オヨヨは様々な手で金魚を狙い、窓の隙間から金魚へと手をのばすも、うずら(たまごの弟)に木槌で叩かれる(アニメオリジナル)。狙った獲物を執拗に追うのは、ルパン三世2nd(演出/コンテ)のルパンや、アンパンマン(脚本)のばいきんまん的。
その後もオヨヨはめげず、ロープを使って上から金魚を狙うも、たまごにばれてボコボコにされる(アニメオリジナル)。このしつこさ、戦法の多様さも、アンパンマン(脚本)の、ばいきんまんを思わせる。
たまごは、家は危険と判断し、金魚を公園の池に放す。しかしすかさず、オヨヨは調理器具や食器持参で金魚を狙う。ここも、RIDEBACK・ストロベリーパニック(脚本)同様、食いしん坊描写の強調が見られる。
オヨヨは池に手を突っ込むが、カエルを掴んでしまい、気が動転する(原作では、カエルではなく狂暴な魚)。高屋敷氏は、ど根性ガエル(演出)・新ど根性ガエル(脚本)のスタッフなので、カエルに思い入れがあるのかもしれない。
オヨヨが放り投げたカエルは、アレレ(近所の美猫)の顔に当たり、アレレは気絶。その隙に、オヨヨはアレレに触ろうとするが、気がついたアレレにひっかかれる(アニメオリジナル)。異性に手ひどくふられるのは、ルパン三世2nd(演出/コンテ)を彷彿とさせる。
オヨヨは、今度は銛で金魚を突こうとするが、逆に、たまごに銛で尻を突かれる。とにかく獲物への執着心の強さは、ルパン三世2nd(演出/コンテ)のルパンや、宝島(演出)のシルバーなどと重なるものがある。
そしてオヨヨは、ボートと網を使い、金魚を捕まえようとするが、たまごに石をぶつけられて失敗。原作通りだが、宝島(演出)の、ボートを使っての作戦行動の場面と比べると面白い。
オヨヨは、今度は鯉に扮して金魚を狙う。たまごとうずらは、それを巨大魚と勘違いし攻撃。さらに、オヨヨはスッポンに噛まれる(アニメオリジナル)。まんが世界昔ばなし(演出/コンテ)、マイメロディの赤ずきん(脚本)などでも、補食側の苦労が描かれる。
オヨヨは息が続かず浮上し、たまご達は巨大魚の正体がオヨヨだったことに驚く(アニメオリジナル)。新ど根性ガエル・ワンナウツ(脚本)などでも、いじめる(?)側が手痛い目にあうのが強調されている。
ボロボロになったオヨヨだったが、好物の芋が食卓に並ぶと駆けつける(アニメオリジナル)。ここも、ガンバの冒険・アンパンマン(脚本)などなどと同様、頻出の食いしん坊描写。
スッポンに噛まれて口が腫れているため、うまく芋を食べられないオヨヨであったが、それでも食べたいと主張。たまごは呆れて、芋をオヨヨの口に突っ込むのだった(アニメオリジナル)。ここもまた、グラゼニ・カイジ2期(脚本)ほか頻出の、食いしん坊描写。
- まとめ
オヨヨの「食」への執着が、原作より大分強化されている。オヨヨが行った作戦のバリエーションも、アニメだと大分増えている。とにかく高屋敷氏は「食」にこだわる。
原作のエピソードはかなり短いので、アニメにするには、そこそこ肉付けが必要となるわけだが、うまくネタが増やされている。この技術は、ルパン三世2ndの脚本にも見られる(アニメにするには原作が短すぎる)。
アニメオリジナル場面を増やすにあたり、オヨヨの食いしん坊ぶりと、それを原動力にしたしつこさが、うまくクローズアップされている。高屋敷氏の、キャラの掘り下げの上手さが遺憾なく発揮されている。
あと、相変わらず話の5W1Hを書くのが上手い。どんなにハチャメチャなギャグでも、なるべく論理に合わないもの、突発的なものは書かないようにしているように見える。
例えば原作では、池の中から(池のサイズに合わない)狂暴な巨大魚が出てきてオヨヨを襲うのだが、そこをカエルに改変している。これも、理屈・論理に合わないものは出さないといったポリシーが感じられる。
高屋敷氏は、とにかくシステマチックで綿密に計算された脚本を書く傾向があるが、ナンセンスギャグである本作でも、なるべくそれを貫こうとしている。それは結構、難易度の高いことなのではないだろうか。
このような高屋敷氏の姿勢から、ギャグだから何でもやっていい、滅茶苦茶でいい、というわけでもないのではないか、と、ギャグならではの難しさについて、考えさせられた(勿論、滅茶苦茶さが売りの作家もいるが)。