ベルサイユのばら6話コンテ:作品・時代を越えた「縁」
アニメ・ベルサイユのばらは、池田理代子氏の原作漫画をアニメ化した作品。フランス革命前後の時代が、男装の麗人・オスカルを中心に描かれる。
監督は、前半が長浜忠夫氏、後半が出崎統氏。高屋敷氏は、前半の長浜監督下で数本、コンテを担当した。今回6話は、演出が出崎哲氏(出崎統氏の兄)、脚本が杉江慧子氏。
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今回は、
- マリーが初めてパリに行く
- 貧民街でのジャンヌ・ロザリー姉妹(後の重要人物)の暮らし
- マリーを狙う貴族の暗躍
- オスカルによるマリーの警護
- 貴族の婦人に取り入るジャンヌ
- フェルゼン(後のマリーの不倫相手)登場
が描かれる。
冒頭、高屋敷氏のコンテでよく出る、像ごし構図が出る。不思議なことだが、絵に関与できない脚本作でも、像はよく出る。ルパン三世2nd演出、カイジ・じゃりん子チエ脚本と比較。
今回、演出が出崎哲氏であることや、高屋敷氏が、出崎統氏と長年仕事していたことも手伝ってか、出崎統氏の演出として有名な入射光演出がよく出る。エースをねらえ!(監督は出崎統氏)の、高屋敷氏演出回と比較。
出崎兄弟演出といえば、鳥演出。高屋敷氏も出す。今回はコンテだが、高屋敷氏の鳥演出は、脚本からでも飛び出すのが驚異的。らんま「脚本」と比較。
そして、高屋敷氏特徴の鏡演出。
この場合は、パリに行けるとはしゃぐマリーが鏡の前で目を閉じており、後ろの、心配するオスカルが見えていない。ルパン演出でも、不二子の背後にルパンが映っているのが意味深。
カイジ脚本では、カイジが、鏡に映る、心配顔の古畑・安藤に気付く。
カイジ2期脚本では、状況が見えているカイジだけが鏡に映っており、状況が見えていないおっちゃんが、鏡に映らない位置にいる。
出崎哲氏が演出なのもあり、出崎兄弟の有名な演出である、止め絵演出も出てくる。
この場面は、マリーが幼い。幼く無邪気なキャラづけは、演出・脚本とも高屋敷氏の得意分野。そして、「私のパリ!」と何回もマリーが言うのだが、高屋敷氏の脚本上の特徴の一つとして、連呼があることを考えると、この連呼部分は、高屋敷氏の、コンテからの上書きかもしれない。
高屋敷氏の大きな特徴である、ランプ(この場合はシャンデリア)のアップ・間も出る。ルパン三世2nd演出、忍者戦士飛影・カイジ2期脚本と比較。
オスカルがマリーを評価する場面では、光が射し込む。はじめの一歩3期脚本にも、似た場面がある。ともに、大切な人を思う。
ここの直後にも、像の意味深アップ・間がある。カイジ脚本と比較。脚本の方が、意味深度合いが増すのも不思議な所。
マリーやルイ16世が気に入らないオルレアン公達が、良からぬことを企む場面で、オルレアン公がナイフをお手玉しているが、片手お手玉は、出崎兄弟がよくやるし、高屋敷氏もよくやる。高屋敷氏の、ど根性ガエル演出と比較。
オルレアン公がナイフを投げるが、「物」が語る演出は、高屋敷氏の演出・脚本とも頻出。
次に、貧民街の様子が描かれる。貧民がパン屋を覗いている場面は、極限状態での飯テロ。高屋敷氏は、飯テロ描写が演出・脚本とも上手い。あしたのジョー2脚本にて、減量に耐えかね、うどんを食べる西と比較。
そして、貧民描写が蒼天航路脚本と被っていく。どちらも王朝末期。
貧民達はパン屋を襲撃、そのどさくさに紛れて、貧民の少女、ジャンヌがパンを盗む。
その直後に、太陽のアップ・間がでる。ジャンヌの悪事を、太陽が「見ている」。高屋敷氏の出す太陽には意思があるのが特徴。あしたのジョー2・太陽の使者鉄人28号・蒼天航路脚本と比較。
帰宅したジャンヌは、鏡を見ながら身を整える。鏡を見ながら女性らしい動作をするのは、演出・脚本ともに、高屋敷氏の作品には多い。ルパン三世2nd演出と比較。
かつて母親が貴族に見初められた事から、自分が貴族の末裔だと信じるジャンヌは、今の暮らしに不平不満を言う。
そんなジャンヌを、母がビンタする。ビンタも、高屋敷氏の作品では強調される。ど根性ガエル演出・カイジ2期脚本と比較。
しかも今回は出崎哲氏が演出なので、哲氏の高速描写と、統氏のスロー描写が合体。また、高屋敷氏も、自身単独の作品で、出崎兄弟合体演出をよくやる(脚本含む)。
天井にカメラがあるような構図も、高屋敷氏の作品にはよくある。ルパン三世2nd演出と比較。
脚本にも、不思議と似た絵面があり、その場合はストーリー性が増している。
ジャンヌは家を飛び出し、残された母は、ロザリー(ジャンヌの妹)を抱きしめる。手を握ったり、ハグしたりして親愛の情を示すのも、よく出る。監督作の忍者マン一平と比較。
場面は転じ、オスカル達は、ド・ゲメネと、シャルル(実はテロリスト)の密会を目撃(後の伏線)。
一方で、ジャンヌはド・ゲメネに物乞いをし、ド・ゲメネに突き飛ばされる。
ジャンヌはド・ゲメネに悪態をつくが、ここの動作が、ど根性ガエルの演出ぽい。
マリーとルイ16世がパリでパレードをする日、アンドレ(オスカルの幼馴染)は、シャルルとド・ゲメネがテロを企んでいるのを知り、それをオスカルに報告。オスカルはシャルルを追跡、剣を交える。殺陣や、止めを刺さない描写が、忍者戦士飛影や蒼天航路の脚本と重なってくる。
追い詰められたシャルルは、毒を飲んで自決してしまう。
そんな事があったとも知らず、マリーは無邪気に花火を眺める。あしたのジョー2脚本にて、花火を眺める丈と重なる。ともに、過酷な未来が待ち受けている。
時を同じくして、川辺に佇むジャンヌは、マリーに悪態をつきながら川面に石を投げ入れる。
水面に石を投げ入れる描写は、演出・脚本ともによく出る。チエちゃん奮戦記脚本と比較。
懲りもせず、ジャンヌは貴族に目を付け、ブーゲンビリエ侯爵夫人に、自分は貴族の末裔だと言い、まんまと夫人を騙す。
詐欺描写も、高屋敷氏の作品では強調される。画像は、騙される側と、騙す側。今回、チエちゃん奮戦記・カイジ脚本。
後日、フェルゼンがパリに到着する。後のマリー・フェルゼン・オスカルの波乱万丈な運命を示唆する一枚絵が出るが、虹はよく出る。エースをねらえ!演出と比較。
- まとめ
ど根性ガエルでは、高屋敷氏が演出、出崎哲氏がコンテだったが、今回はその逆。
また、1980年版鉄腕アトムでは、高屋敷氏脚本・出崎哲氏演出コンテの回がある。
どの組み合わせにしろ、高屋敷氏と出崎哲氏のコンビネーションは抜群。高屋敷氏といえば出崎統氏のチーム要員の印象が強いが、出崎哲氏との絆の強さも窺える。
今回はコンテなので、話にはあまり関われなかったと思うが(コンテから話を上書きしまくる出崎統氏や富野由悠季氏は特例)、ベルサイユのばらでの経験は、その後の高屋敷氏の作品にに大きな影響を与えたと思う。
カイジ(脚本・シリーズ構成)でも、富める者と貧しき者が描かれ、Eカードでは、社会の縮図として、皇帝・市民・奴隷がカードに表される。今回は、リアルEカードの様相を呈している。
アニメのベルサイユのばらで、貧民描写が出たのは今回が初めてであり、高屋敷氏にこの回が回って来たのも運命的。後のカイジや蒼天航路の脚本に重なるものがある。
ジャンヌは、「貴族だろうが金持ちだろうが同じ人間じゃないか。生まれた時の運が悪かっただけで、割り食ってたまるか!」と言う。奇跡的にも、高屋敷氏は後に、カイジ2期にて「宿運の差」というサブタイトルの脚本を書いている。その回では、カイジも、そのライバルである一条も、生まれながらの「運」に翻弄される。勝負での宿運は一条が少し上回るも、過去の不幸な出来事で人を憎むようになった一条と、色々あったが人を愛し、愛されるカイジの「宿運の差」も、同時に描かれている。
ジャンヌは今後、どんどん悪女になってしまうのだが、一方で、妹のロザリーは、色々不幸な目には逢うものの、愛されるキャラになっていく。これも運命の「差」かもしれない。
とはいえ、今回のジャンヌは、不良ではあるものの、どこか無邪気なところがあり、憎めないキャラになっている。善悪の区別が複雑なのも、高屋敷氏の特徴。
また、前述の通り、無邪気なキャラ作りは高屋敷氏の十八番。今回はコンテからの演技づけで、それが表れているが、これが脚本でも表現されるのが不思議。下記画像は、忍者戦士飛影脚本との比較。
カイジ1期脚本のEカード編では、全身全霊をもって、カイジが「奴隷」カードで「皇帝」である利根川を倒すが、ベルサイユのばらでは、史実の通り、貧しき人々が革命を起こす。この重なりも、奇跡的な縁。
そして、作品や年代を越えた「縁」が確実に、後の作品に生かされている事を確認できる回だった。
ルパン三世2nd147話演出・絵コンテ:一人しかいない「自分」
ルパン三世2ndは、アニメ・ルパン三世の第2シリーズ。ルパンのジャケットが赤いのが目印。今回の脚本はいとうまさお氏。
高屋敷氏は演出・絵コンテを担当。
サブタイトルは「白夜に消えた人魚」(アニメオリジナル)。
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舞台はノルウェー。鳥が飛ぶ演出は、高屋敷氏の演出・脚本ともに、よくある。カイジ脚本と比較。
両方とも、アニメオリジナル場面。長年一緒に仕事した、出崎兄弟の鳥演出に、ストーリー性を加味している。
次に、不二子が車を走らせている場面になるが、ベルサイユのばらコンテと重なる。坂道遠近の使い方も、出崎兄弟ゆずり。
不二子の目的地は、彫刻家・ビンゲルの家。ルパンも密かに不二子の後をつける。
高屋敷氏の演出・脚本とも、「像」がよく出てくる。しかも、脚本作でまで、似た構図になるのが、いつもながら不思議。カイジ・じゃりん子チエ脚本と比較。
不二子は、キャリアの集大成として、唯一無二の傑作を作りたいというビンゲルの熱意に協力し、水晶でできた人魚像のモデルをしていた。
その様子を密かに覗いていたルパンは、不二子が服を脱ぎ始めたので、たまらず部屋に乱入する。不二子は、そんなルパンに花瓶を投げつける。この直後にサブタイトルコールになるのだが、ワンナウツ脚本と結構シンクロしていて笑った。
少なくとも、ワンナウツの文字演出は、ルパン三世2ndのサブタイトルコールを意識しているのは明らか。
その後ルパンは、次元と五右衛門に、事の顛末を話し、愚痴をこぼす。港町にあるアジトという所に、出崎兄弟の波止場好きの影響が出ている。太陽の使者鉄人28号脚本と比較。
ルパンの話を聞き、呆れる次元と五右衛門の背後をヨットが横切っていくが、この、船横切り演出も、出崎兄弟がよくやる。高屋敷氏の不思議な所は、「脚本」からでも、この演出が飛び出す点。アカギ・MASTERキートン・めぞん一刻脚本と比較。
そこへ不二子がやってきて、自分をモデルにした人魚像を、ビンゲルがベルゲン市長に売ってしまったと話す。市長は人魚像を、ベルゲン市の観光の目玉にするのが目的だった。
莫大な買い取り金の分け前を不二子は手にしたものの、自分を模した人魚像が見知らぬ多くの人々に見られたり、触られたりするのが嫌だと言い、ルパンに人魚像を盗むよう依頼。
いつものごとく不二子のお色気にほだされたルパンは、この依頼を受けることにする。
人魚像は、オスロからベルゲンに、列車で運ばれる手筈になっており、銭形が警備を担当していた。そしてそれに協力する、ニガールという地元の刑事がいるのだが、太陽の使者鉄人28号における高屋敷氏脚本回に、同じくニガールという警察部長が出る(性格や外見は大きく異なる)。しかも舞台がノルウェーという所も同じ。年代も近い(1980~81)。
人魚像の入った車両は、特殊な連結を施されており、車両を切り離す事が難しくなっている。高屋敷氏の、ルパン三世における演出・脚本作では、銭形はそんなに間抜けには描かれていない。同氏の好みだろうか。
列車は走り出し、橋を渡る。こういった橋の演出も、出崎兄弟ゆずり。やはり高屋敷氏版で恐ろしいのは、脚本からでも、それが出力されるところ。エースをねらえ!演出、めぞん一刻・新ど根性ガエル脚本と比較。
そして、ベルゲン市長と銭形は、ノルウェー料理に舌鼓を打つ、高屋敷氏特徴の飯テロ。MASTERキートン・カイジ2期脚本と比較。
銭形達をよそに、列車に飛び乗ったルパンと不二子は、容易に人魚像の入った車両の錠前を破る。だがルパン達は、車両が特殊な連結になっている事に気付く。そこへ銭形が現れ、ルパンを捕まえようとするが、ヘリで駆けつけた次元と五右衛門がルパンと不二子を回収したため、取り逃がしてしまう。
ルパン達は作戦を練り直し、オスロとベルゲンの中間地点にて列車のルートを変えさせる仕掛けを作る。
更にルパンと不二子は列車に再度侵入し、列車にも仕掛けを施した上で、先頭車両を占拠。
ルパンは、変更したルートに列車を乗せ、ジャンプさせる。列車をジャンプさせるのは、1980年版鉄腕アトム脚本にも出る。
また、太陽と絡めた絵面も、高屋敷氏の作品では頻出。元祖天才バカボン演出、蒼天航路・太陽の使者脚本と比較。
列車と、あらかじめ用意していたラッセル車を使った仕掛けを使い、五右衛門と次元は、人魚像の入った車両だけを切り離すことに成功。残った車両と先頭車両は、ルパンの仕掛けた大型バネにより、再連結。
こういった、ピタゴラスイッチ的な凝った仕掛けも、高屋敷氏の作品にはよく出る。監督作忍者マン一平、カイジ2期脚本と比較。
ルパンは、宙に舞う列車を、本来のレールに着地させる。
この時、ルパンが十字を切るのだが、元祖天才バカボン演出、1980年版鉄腕アトム脚本と重なる。
そして、ルパンと不二子はまんまと列車から脱出。運転手を失った列車は、ベルゲン駅には着くものの、崩壊。銭形達はボロボロになる。怒った市長は、ニガールにクビを宣告する。それを受けたニガールは泣き出してしまう。おじさんがよく泣くのも、高屋敷氏の特徴。カイジ2期・太陽の使者鉄人28号脚本、監督作忍者マン一平と比較。
市長の怒りは収まらず、銃を発砲しながら銭形を追いかけまわす。これは、高屋敷氏が演出や脚本をした、元祖天才バカボンにおける本官さん(トリガーハッピーな警察官)のパロディ。
ルパン達は、車両を開けて人魚像と対面するが、車両に加えられた数々の衝撃がたたり、人魚像は砕け散ってしまう。
それでもルパンは、水晶も不二子も、自然のままがキレイだと言う。
そのまま不二子を口説こうとするルパンであったが、不二子に突き飛ばされてしまうのだった。
- まとめ
高屋敷氏が担当したルパン三世の演出・脚本の中では、一番作戦が大がかり。そして、トラップを作って何かをジャンプさせる、ピタゴラスイッチ的なネタは、他の作品でもよく出てくる。
同氏が、凝ったギミックを使った作戦が好きな事が窺える。これは、カイジ脚本・シリーズ構成にも言えること。
あと、気になるのは、あらゆる作品に出てくる「像」である。
高屋敷氏は、「もの言わぬもの」に魂があると捉えている節がある。その中でも、人や生物を模した「像」は、魂が宿りやすいのではないだろうか。
当ブログや私のtogetterにて、何回か書いているが、高屋敷氏は、まんが世界昔ばなしの「幸福の王子」の演出・コンテを担当している。この話は、有名な原作通り、王子像が意思を持っており、町の人々を「見ている」。
他の作品でも、「像が見ている」という演出が多々見られる。
不二子は今回、自分を模した人魚像を、自分の分身のように思うわけだが、最後には、人魚像が壊れてしまう。「自分」は一人しかいないのだから、「分身」はいらない、ということかもしれない。
「自分を強く保て」「己は唯一無二」は、高屋敷氏がよく発するメッセージの一つ。
今回は、エンターテインメント中心の話ではあるが、高屋敷氏の提示するテーマ「自分とは何か」は、確かに出ている。
そして、他の担当作とのシンクロ現象も多発している。特に、絵を管理できないはずの「脚本」とのシンクロは驚異的。
数々の演出経験が、画を想像しやすい「脚本」に、確かにつながっていると感じられる回だった。