ワンダービートS 20話脚本:第二の脳たる「手」
ワンダービートSは、手塚治虫氏が企画や監修に携わったオリジナルアニメ。ミクロ化してヒトの体内に侵入し、害をなす異星人に対し、同じくミクロ化して戦う部隊・ホワイトペガサスの活躍を描く。
医学博士でもある手塚治虫氏の、医学解説コーナーもある。
監督は、前半が出崎哲氏、後半が有原誠治氏。
今回は、コンテ/演出が吉田健次郎氏、脚本が高屋敷英夫氏。
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- 今回の話:
リー(ホワイトペガサス隊長)の学生時代の先輩で、陶芸家である滝の右手にビジュール星人が侵入。リー率いるホワイトペガサス隊は、リー自身の活躍もあって、これを撃退。
滝は、自分の「手」の大切さを実感するのだった。
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リーが滝(リーの学生時代の先輩で、陶芸家)との思い出を、ススム(主人公)とマユミ(ヒロイン)に語る場面で、リーが夕陽を見る。
わざわざ窓を開けてまで夕陽を出すあたり、高屋敷氏の、太陽に対する思い入れが感じられる。同氏のあらゆる担当作にて、太陽は重要な役割を担っている。
マッドハウス版XMEN・F-エフ-脚本、空手バカ一代演出と比較。
リーは学生時代、試験に落ちたことで、医学の道を諦めようとしたことがあった。
その時、一度や二度の失敗で諦めるな、諦めたら今までやってきたことが無駄になってしまう…と彼女を励ましてくれたのが滝だった。
人生の何たるかを助言するキャラは高屋敷氏の担当作に多く出て、かつ強調される。MASTERキートン・めぞん一刻・はじめの一歩3期脚本など多数。
結構共通しているのは、「諦めるな」という、不屈の精神。高屋敷氏のポリシーの一つかもしれない。
滝の手の不調がビジュール星人の仕業だと気付いたリーは、滝の手を取って、勇気を出して(ホワイトペガサス隊による)治療を受けるよう進言。
高屋敷氏の大きな特徴である、「手と手を通じて伝える情愛」が出ている。
ベルサイユのばらコンテ、ど根性ガエル演出、めぞん一刻・MASTERキートン・ワンナウツ・カイジ2期脚本と比較。
ホワイトペガサス隊は、ミクロ化して滝の手の内部に突入し、ビジュール星人と戦闘に。苦戦はするものの、リー隊長自身の活躍などもあり、ビジュール星人を撃退。
滝の手は元通りになり、陶芸ができるようになる。手の大切さを実感した滝に、リーは「手は第二の脳とも言われているわ」と言う。ここも、あらゆる作品にて高屋敷氏が「手」を重要視していることがわかり、興味深い。
一方ビジュール側は、地球人の体内にあるという「生命元素」を見つけられずにいるのはガボー博士の責任であると、ズダー将軍が責める。ここはガボー博士が気の毒。
高屋敷氏は、敵側の悲哀も描くことが多い。カイジ2期・忍者戦士飛影脚本、ルパン三世2nd演出/コンテと比較。
- まとめ
なぜ高屋敷氏が「手」を重視するのかの理由が窺える回で、これは大収穫だった。
元祖天才バカボン演出/コンテにて、「手が喋る世界」が描かれたり、監督作の忍者マン一平にて「手を握れば友達」という旨の台詞があったりと、今までも「手」の大切さが直球で表現される話があったが、今回は医学も交えてきた。同氏の並々ならぬこだわりが見えて面白い。
手を感情表現に使うということは、台詞ではなく視覚に訴えるということ。
高屋敷氏は、演出だけでなく、「脚本」でもこれを行う。これもまた、同氏が視覚情報を重視した、「台詞に頼らない脚本」を書けることを表しており、それは、高屋敷氏の魅力の一つ。
高屋敷氏がそういった「映像を想定した脚本」を書くのは、コンテ段階で脚本を改変しまくる出崎統氏と、長年一緒に仕事したことから来ていると考えている(以前も何回か書いたことだが)。出崎統氏が脚本を改変する基準の一つは、「映像でわかることは台詞にしない」ではないだろうか?現に、スローや止め絵といった出崎演出は、「映像」や「絵」ありきである。
「手」の話に戻るが、今回の「手は第二の脳と言われているわ」という台詞。高屋敷氏は、「手」をはじめ、体の部位にも魂や意思があるかのように描写する。はじめの一歩3期脚本でも、信じられるのは自分の「拳」だけ、と沢村(一歩の対戦相手)が思う場面が、かなり強調されている。
もっと前を遡れば、脚本デビュー(無記名)のあしたのジョー1に辿り着く。ボクシングは、まさに「拳(すなわち手)」が「語る」世界。
空手バカ一代演出でも、「腕や血が(この勝負を)覚えている」旨の台詞がある。
これを踏まえると、「手は第二の脳」という台詞が、いかにダイレクトに高屋敷氏の意図を伝えているかがわかる。
同氏が長年こだわってきたポイントの「理論」が知れる、貴重な回だった。