ベルサイユのばら11話コンテ:カイジに継がれた、オスカルの怒り
アニメ・ベルサイユのばらは、池田理代子氏の漫画をアニメ化した作品。フランス革命前後の時代が、男装の麗人・オスカルを中心に描かれる。
監督は、前半が長浜忠夫氏、後半が出崎統氏。高屋敷氏は、前半にて数本、コンテを担当した。今回11話は、演出が山吉康夫氏、脚本が山田正弘氏、コンテが高屋敷英夫氏。
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- 今回の話:
マリーは王妃となり、オスカルは近衛連隊長に昇進する。
だがマリーは政務を放り出し、北欧貴族の美青年・フェルゼンに夢中になる。
事態が深刻になる前にと、オスカルはフェルゼンに帰国を促す。
その後オスカルは、ド・ゲメネが貧民の子供を撃ち殺す場面に遭遇、怒りに震える。
一方、オスカルの進言を受け、フェルゼンは帰国。マリーは孤独を感じるのだった。
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冒頭、長年一緒に仕事した出崎兄弟ゆずりの鳥演出がある。脚本にシフトすると、高屋敷氏は鳥にどんどん意味を持たせるようになる。らんま・コボちゃん・じゃりン子チエ脚本と比較。
そして、高屋敷氏のコンテ癖の一つ、手前レイヤー左右にオブジェクトを置く構図が出てくる。結構ユニークで、ベルサイユのばらにおいて、高屋敷氏のコンテだとわかる目印になっている。監督作忍者マン一平、空手バカ一代演出・コンテ、ルパン三世2nd演出・コンテと比較。
サブタイトル表示時から、高屋敷氏の大きな特徴である、印象的な夕陽のアップ・間がある。今回も、全てを見ているかのような存在感がある。
忍者戦士飛影脚本、空手バカ一代演出、蒼天航路・あしたのジョー2脚本と比較。
近衛連隊長となったオスカルと、マリーが話すシーンにて、高屋敷氏特徴の、鏡演出が出てくる。
真実や状況を映す役割を担っており、ここでは、角度的に、マリーを案ずるオスカルが映っておらず、マリーは現状に気付けない。
じゃりン子チエ・めぞん一刻脚本、ルパン三世2nd演出・コンテ、カイジ脚本と比較。
ところで、高屋敷氏の演出や脚本は、キャラが無邪気で幼くなる傾向があり、今回もそれが出ている。後にオスカルの恋人となるアンドレがコミカルで幼い。
エースをねらえ!演出、めぞん一刻脚本と比較。どれもヒロインの恋人となるキャラだが、高屋敷氏にかかると、「男の子」的な一面を見せる。
あと、ベルサイユのばらにおける高屋敷氏コンテ回では、オスカルのばあや(アンドレの祖母)が可愛い。高屋敷氏は、味のある老人の描写が相当得意なのではないだろうか。あらゆる作品で、印象に残る。
画像は、味のあるおばあさん集。
今回と、花田少年史・めぞん一刻・MASTERキートン脚本。
オスカルがマリーを案ずる場面でも、窓にオスカルを映す、鏡演出が出ている。ここでは、状況を把握しているオスカルが、はっきりと自分の顔を見る。カイジ・めぞん一刻・あしたのジョー2脚本と比較。カイジと、めぞん一刻の五代は自分と向き合い、あしたのジョー2の金竜飛は、自分と向き合えず、鏡を見ていない。
オスカルが、マリーとフランスの行く末を案ずる場面では、ロウソクの火が意味深に映る。ランプや火が意味深に映る、高屋敷氏の大きな特徴が出ている。空手バカ一代演出・コンテ、ワンナウツ・蒼天航路脚本と比較。
マリーがカード遊びに興じているが、カイジはじめ、高屋敷氏の演出や脚本では、割とカードゲームが出てくる。カイジ・キャッツアイ・忍者戦士飛影脚本と比較。
宮廷の噴水に虹がかかる場面かあるが、演出時代の高屋敷氏は、よく虹を出す。エースをねらえ!演出、シリーズ構成・脚本作である、「Rainbow-二舎六房の七人-」のOPと比較。「二舎六房の七人」では、シリーズ全体で、虹が重要な役割を担う。後年の脚本作になるにつれ、虹の意味合いが格段に深くなる。
マリーにつき従うメルシーとノワイユは、味のある良キャラで、こういった、若者を見守る大人達を印象深く描写するのも、高屋敷氏の得意とするところ。
アカギ脚本、空手バカ一代演出・コンテ、カイジ2期脚本と比較。
マリーとフェルゼンが、互いに好意を寄せあっているのが明確に分かる場面では、風が印象的に描写される。また、紙の描写は、高屋敷氏の作品では頻出。
風、雨、雪など、天候に役割を持たせるのも、高屋敷氏の特徴の一つ。
MASTERキートン・めぞん一刻脚本、監督作忍者マン一平、カイジ2期脚本と比較。
貧民の子供・ピエールがド・ゲメネに射殺され、オスカルが怒りと悲しみに打ち震える場面は、カイジ脚本の、利根川に仲間達を殺されたカイジが激怒する場面と、恐ろしいまでのシンクロを起こしている。かたや話をいじれないコンテ、かたや絵をいじれない脚本…奇跡的な事だが、絵も話もオーバーラップする。
高屋敷氏の巻き起こす、こういった奇跡には、いつも驚かされる。
そして高屋敷氏は、カイジ20話脚本にて、何も持たぬ「奴隷」として、カイジが「皇帝」たる利根川を討つ話の脚本を担当した際、ベルサイユのばらにおける、今回の話を思い出しているのではないか?と思うくらい、カイジが、自身の仲間達だけでなく、ピエールの無念も晴らしたように見える。両作品の色々な場面が思い出され、劇的。
終盤、迫力ある夕陽の意味深なアップ・間がある。かなり物語とリンクしている、重要な役回り。
空手バカ一代演出・コンテ、キャッツアイ・めぞん一刻脚本と比較。
フェルゼンが帰国する場面では、出崎兄弟ゆずりの坂道遠近が出てくる。ルパン三世2nd演出・コンテと比較。
フェルゼンの帰国を知ったマリーは、扇子を取り落とす。高屋敷氏は、「物」が意思をもつかのように描写する。あしたのジョー2・めぞん一刻脚本と比較。
フェルゼンがいなくなり、マリーは孤独を感じる。「孤独」が人を蝕む描写は、高屋敷氏の作品によく出てくる。仲間に裏切られ、孤独になってしまったカイジ(脚本)と比較。
孤独からの救済描写もよくあるが、今回は原作通り、破滅が示唆される。
- まとめ
とにかく目を引くのは、ピエールを射殺したド・ゲメネに激怒するオスカルと、仲間を殺され、利根川に激怒するカイジが、恐ろしいまでに重なり、そしてカイジ20話脚本にて、利根川を討つカイジが、自身の仲間達だけでなく、ピエールの仇まで取ったように見えること。
ド・ゲメネと利根川、奇跡的に、名前まで似ている。
奇跡的な偶然で片付けてしまいたいところだが、原因としては、どちらも、
- 貧富の差が前面に押し出されていること
- 金持ちに、貧しき者が殺されていること
- 主人公が、上記の事柄に激怒すること
- 主人公が、義理人情に溢れる人間であること
が挙げられる。
更に、高屋敷氏の強調したい部分が、コンテと脚本の違いこそあれど、両作品で共通していると考えられる。演出にしろ脚本にしろ、高屋敷氏は、出したいテーマを直球で投げてくることが多い。それが、画面にありありと表れるから、奇跡的シンクロが起こり続けるのかもしれない。
高屋敷氏の作品を見るたびに思うことであるが、その時その時で、持っている引き出しを全力で使っているように感じる。そのため、後年になればなるほど、引き出しが多くなり、話に込められた意味が非常に濃厚になっていく。カイジ脚本・シリーズ構成(2007)と、ベルサイユのばらコンテ(1980)の年月の差は、30年近い。得た経験を確実に積み上げ、必要な時に着実に使う、高屋敷氏の「引き出しの多さ」を感じた回だった。