ガンバの冒険18話脚本:臆病は死
アニメ・ガンバの冒険は、斎藤惇夫氏の児童小説をアニメ化した作品。凶悪なイタチ・ノロイと戦うべく立ち上がったガンバ達(ネズミ)の冒険を描く。監督は出崎統氏。今回の演出は竹内啓雄氏で、脚本が高屋敷英夫氏。
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- 今回の話:
凶悪なイタチ・ノロイの支配する島を目指し旅をするガンバ達は、食糧を求めて入った高倉にて、太ったネズミ達に会う。どうやら彼らには事情がありそうで…
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前回の使いまわしだが、開幕に太陽が映る。
画像は今回と、元祖天才バカボン・空手バカ一代(演出/コンテ)、らんま(脚本)との比較。どれも開幕に出た太陽で、こういった表現は多い。
ガクシャ(頭脳派)は地図を確認する。よほど癖になっているのか好きなのか、とにかく地図を使った場面は数多い。
空手バカ一代(演出)、ルパン三世2nd(演出/コンテ)、太陽の使者鉄人28号(脚本)と比較。画像が用意できないが、家なき子にて高屋敷氏は、地図を巡る温かい回の演出を担当している。
真面目なガクシャをよそに、ガンバや一部のメンバーは、しっぽ踏み鬼ごっこをして遊ぶ。高屋敷氏は、キャラの無邪気で幼い部分を引き出すのが上手い。ワンナウツ(脚本)、ど根性ガエル(演出)、元祖天才バカボン(演出/コンテ)、忍者戦士飛影(脚本)と比較。どれも幼い。
ひとしきり遊んだ後、ガンバはノロイのいる島を見つめて覚悟を決める。
いざという時、ガラリと真剣な顔つきに変わるキャラは、様々な作品で印象に残る。F-エフ-・カイジ・グラゼニ(脚本)と比較。
そんな折、ボーボ(ガンバの親友)は空腹を訴え、ガンバは笑う。食と精神の結びつきの重要性は、ありとあらゆる作品に出ている。はだしのゲン2・おにいさまへ・グラゼニ(脚本)と比較。
何はともあれ食べ物を探すことにしたガンバ達は、途中で猫に襲われるも、高倉に侵入して米をたらふく食べる。とにかく美味しそうな食事シーンは定番。カイジ2期・じゃりン子チエ・グラゼニ・チエちゃん奮戦記(脚本)と比較。
だが高倉には先住のネズミ達がおり、ガンバ達が入ってきたルートを塞ぐ。いきり立つガンバだったが、後で歓迎パーティーを開くと聞いて態度を軟化。皆もパーティーを楽しみにする。ここも幼く、喜び方が可愛い。宝島(演出)、DAYS・カイジ・陽だまりの樹(脚本)と比較。
高倉に住むネズミの一匹・一郎に案内され、ガンバ達は高倉の施設を見てまわる。その最中、ガクシャはメガネを使ってガンバの尻尾にイタズラする。レンズを使った着火は、ど根性ガエル(演出)や、(原作通りだが)RAINBOW-二舎六房の七人-(脚本)を彷彿とさせる。
ガクシャのイタズラにより尻尾が熱くなったガンバは桶に飛びこむが、そこには酒が入っており、酔っぱらってしまう。愛嬌のある泥酔描写は、色々な作品にある。宝島・ど根性ガエル(演出)、カイジ2期・グラゼニ(脚本)と比較。
夜、歓迎パーティーが開かれるが、どこか雰囲気が暗く、イカサマ(博徒)は訝しむ。
ごちそう場面も頻出。空手バカ一代(演出/コンテ)、グラゼニ・コボちゃん(脚本)、ルパン三世2nd(演出/コンテ)と比較。
ガンバは、まだ酔っぱらっており眠りこける。ど根性ガエル(演出)、カイジ2期(脚本)、宝島(演出)と比較。どれも無邪気なのが特徴。
そして高倉ネズミ達は、ガンバの「ノロイ」という寝言に、異様に動揺する。
夜中、高倉ネズミの主要メンバー達は話し込む。彼らは、桜の咲く季節にノロイに襲われて以来、高倉にひきこもる生活を1年半も続けていたのだった。桜は時折、生死を見つめるものとして描写される。おにいさまへ…・めぞん一刻・はだしのゲン2(脚本)と比較。
高倉ネズミ達の事情を密かに聞いていたガンバ達だったが、すぐにばれる。
ガンバは、もうこの村にノロイはいないと告げ、彼等を臆病だと非難する。
このあたりは、臆病風に吹かれる=真に生きているとは言えない…という、カイジ(シリーズ構成)におけるカイジの主張が重なってくる。
強引に外に出たガンバ達は猫に襲われるも、果敢に戦う。それを見た一郎は、釘を使った捨て身の攻撃をして猫を倒す。
キャラクターが絶対的強者に立ち向かい勝利する姿は、カイジやグラゼニ(シリーズ構成・脚本)でも強調されている。
ガンバは一郎に、臆病だと言ったことを詫びる。
男が男を認める場面は、宝島(演出)やグラゼニ(脚本)ほか、多くの作品で強く打ち出されている。
外に出た高倉ネズミ達は、一年半ぶりに見る太陽に沸き立つ。彼等に見送られ、ガンバ達は旅立つのだった。
神聖なものとも取れる太陽の描写は、実に多い。宝島(演出)、F-エフ-・あしたのジョー2・ワンダービートS(脚本)と比較。
- まとめ
原作からしてそうなのだと思うが、結構考えさせられる話。
リスクを冒してでも自由を勝ち取りに行くか、食うには困らないが不自由な暮らしを続けるかという選択は、大人になればなるほど考え込んでしまう。
勿論、ガンバ達はノロイと戦おうとするほどの勇気があるので、躊躇なく外に出て行く。若い一郎もまた、その姿に感化されて戦う。出崎統監督、演出の竹内啓雄氏、そして高屋敷氏(このメンバーはよく一緒に仕事している)は、「(特に男が)真に生きる」とは何かを、色々な作品で表現している。
出崎統氏・竹内啓雄氏・高屋敷氏の表現は三者三様なれど、「生きざま」「生きる上での美学」に重点を置いているのは共通している。高屋敷氏の場合は、キャラクターの無邪気で幼い部分を強調しつつ、覚醒・成長する様を劇的に描く事に長ける(カイジ然り)。
今回もまた、冒頭でガンバ達が鬼ごっこに興じる幼さを見せておきながら、クライマックスでは、彼等が勇敢なネズミであることを前面に出す組み立てになっている。これがシリーズ構成作になると、そういった「ギャップ」を見せる/魅せる仕掛けが盛り沢山となる。
また、先述の通り、カイジ(シリーズ構成・脚本)と今回の話が重なるのは面白い。
ほぼ原作通りだが、カイジ1期にて「臆病ばっかで脳まで退化してやがんのよ。そんなの生きてるなんて言わねえ」というカイジの言葉が、かなり強調されていたのを思い出す。
これだけでなく、高屋敷氏の担当作品には「真に生きるとは何か」といったエッセンスが入っていることが多々ある(特にシリーズ構成作)。全身全霊をもって生きてこそ、真に「生きている」と言えるのではないか…という思いがあるのだと考えられる。
あしたのジョー2最終回(脚本)、F-エフ-・グラゼニ(シリーズ構成・全話脚本)、カイジ・アカギ・RAINBOW-二舎六房の七人-(シリーズ構成・脚本)など多くの作品で高屋敷氏は、自分の決めた道を全力で生きることの大切さ、美しさを強く訴えている。今回もその要素が見受けられ、興味深かった。