『あしたのジョー2』20話脚本:結末に向けた調整
アニメ『あしたのジョー2』は、高森朝雄(梶原一騎)氏原作、ちばてつや氏画の漫画をアニメ化した作品(第2作)。風来坊の青年・矢吹丈がボクシングに魂を燃やし尽くす様を描く。監督は出崎統氏。
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- 今回の話:
コンテ:出崎統監督、演出:竹内啓雄氏・大賀俊二氏、脚本:高屋敷英夫氏。
東洋チャンピオン・金竜飛との試合を前に、丈は思わぬ成長期を迎え、減量に苦心する。
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開幕、月が映る。全てを見ているような月の描写は頻出。めぞん一刻・陽だまりの樹・F-エフ-(脚本)と比較。
金竜飛(韓国のボクサー。東洋一位)は、手に血がついていると思い込み、夜中に手を洗い続けるという奇妙な癖があり、周囲は戦慄。鏡を使った意味深描写は多い。めぞん一刻(脚本)、ベルサイユのばら(コンテ)、カイジ2期(脚本)、ルパン三世2nd(演出/コンテ)と比較。
一方、金竜飛と試合予定の丈は、思わぬ成長期により体重増加が止まらない旨を段平(丈の属するジムの会長)に打ち明ける。段平は、気付かなかった自分を責め、泣く。手による感情表現は頻出。
RAINBOW-二舎六房の七人-・グラゼニ(脚本)と比較。
段平に打ち明ける前から体重を気にしていた丈は、飲食をひかえる日々を送っており、夜中に蛇口から滴る水の音すら気になる。蛇口と水滴の描写は、しばしば見られる。F-エフ-・おにいさまへ…(脚本)と比較。
段平との二人三脚で、あらためて減量生活をスタートさせた丈は、段平の用意した必要最低限の食事も、半分しか手をつけない。飯テロは数々の作品にある。はだしのゲン2・カイジ2期・グラゼニ(脚本)と比較。
そんなある日、ドヤ街(丈の地元。東京の下町)の子供達が、丈がおかしくなったと段平に報告する。また、西や紀子といった、丈の友人達も、丈を心配し集まる。この面子が集まるのはアニメオリジナルで、キャラを話に絡ませる構成が上手い。
丈は、個室をサウナ状態にし閉じこもっていた。そのまま意識朦朧になってしまった丈を救うべく、西がドアを破壊する(アニメオリジナル)。西のキャラの掘り下げや活躍には、なにか高屋敷氏のこだわりが感じられる。
その後、意識が回復した丈は、紀子に挨拶する(アニメオリジナル)。ここも、紀子と丈の間に流れる複雑な感情を、シリーズを通して、こぼさず捉えて行こうとする意図が少し窺える。
段平は丈の身を案じ、今度の試合を御破算にして階級を上げようと提案するが、丈は断固拒否する。会話中、おもりが動くが、状況に連動する物の描写は色々な作品にある。カイジ(脚本)、ベルサイユのばら(コンテ)と比較。
その後、丈は何としても現階級(バンタム)に残ると宣言し、屋根裏部屋に閉じこもる。
そんな丈を、ドヤ街の子供達は心配する。
ここもアニメだと子供達が目立つ。宝島・ガイキング(演出)ほか、高屋敷氏は子供の幼さを引き出すのが上手い。
段平は、丈の好物・トマトサンド(紀子手製)と、冷えたトマトジュースを屋根裏部屋に置く(アニメオリジナル)。ここも頻出の飯テロ。グラゼニ・カイジ2期(脚本)と比較。
だがしかし、丈は断腸の思いでトマトサンドを捨て、紀子は涙を流す。それを見て、サチ子(ドヤ街の子供達の紅一点)も号泣。女心をしっかり捉えた、良アニメオリジナルだと思う。
その後も、めげずに段平は丈に飯テロをしかける。ここも見た通りの飯テロ。
元祖天才バカボン(演出/コンテ)、DAYS(脚本)と比較。
引き続き、ドヤ街の子供達も丈を心配する。アニメオリジナルで雨が降っているが、F-エフ-・はだしのゲン2(脚本)ほか、雨でドラマを盛り上げる事は多々ある。
段平がうたた寝した隙に、丈は部屋から出てロードワークする。夕陽が映るが、月と同じく、全てを見ているような太陽は頻出。ベルサイユのばら(コンテ)、RAINBOW-二舎六房の七人-(脚本)、宝島・家なき子(演出)と比較。
日没後、公園に佇む丈は、みかんが落ちているのを見つけ、手をのばす。カイジ2期(脚本)で、久々のビールに手をのばすカイジと重なってきて面白い。
そこに段平が現れ、丈が手にしているのは、ひからびたみかんの皮だと指摘し(丈の見たみかんは幻)、本物のみかんを差し出す。ここも頻出の、手による感情表現。はじめの一歩3期・おにいさまへ…(脚本)と比較。
丈は、数多の好敵手達がいて、そして力石(亡くなった、丈の好敵手)が命を削ってまで降りてきたバンタムに何としても残ると、みかんを握り潰し、何処かへと消えるのだった。ここも、手による感情表現。ワンナウツ・おにいさまへ…(脚本)と比較。
- まとめ
高屋敷氏といえば飯テロなのだが、それを十二分に活かした構成。飯テロというか、同氏は「生きて」いく上での「食」に非常にこだわる。
当然のことだが、食べなければ生物は生きていけない。それだけでなく、「食」はメンタルにも作用する。高屋敷氏は、そんな「食」の重要性を、生涯を通して訴えていると言っても過言ではない。
例えば、アンパンマン(脚本参加)では「皆でおいしいものを食べる大切さ」をよく説いているし、おにいさまへ…(脚本・シリーズ構成陣)では、崩れたメンタルを「食」で整える場面が印象深い。
本作はボクシングものなので、減量はつきもの。ボクサーは「生きる」ためにボクシングをするのに、「生きる」ための「食」を削るという矛盾がある。その先に何があるのかは、本作でも色々描かれている。
丈は、「真っ白に燃え尽きるまで」ボクシングをやりたいという思いがあるわけだが、そのために、一般的な青春を捨てている。今回、紀子のトマトサンドを捨てたことで、ほのかな恋心も捨てた。ここはアニメの上手い追加要素だと思う。
本作は、原作終了から大分経ってのアニメ化なので、あの(有名すぎる)ラストに向けて、シリーズの調整をすることができる。その「調整」には、高屋敷氏が得意とする「緻密に計算された話作り」も一役買っていると思う。
本作の最終回(高屋敷氏脚本)を思いながら今回を見ると、段平、紀子、西、サチ子達の一挙手一投足が、最終回に向けて「調整」されているように見える。本作はシリーズ構成不在だが、高屋敷氏なりに、シリーズ全体のことを考えていたのではないだろうか。
例えば、西や紀子、ドヤ街の子供達は、原作では丈の最後の試合に登場していないが、アニメでは試合会場に姿がある。そういう流れになるように、アニメでは「調整」されていると思う。
高屋敷氏はキャラを掘り下げることに長けるが、何のために掘り下げるのか、その結果キャラがどう動くのかも視野に入れている感じがする。ここを踏まえながら、本作も見て行きたい。